庭の話

20170520

 「そういえば来年の夏、庭を取り壊すがいちゃ」と電話越しに母は言った。

 実家の庭には小学校の入学式で貰った金木犀が植わっていて、それは隣家の生い茂る木々で陽の光が十分に当たらなかったせいか左側だけ葉をつけないまま、それでも、とにかく私の背よりは大きく育った。庭の金木犀の話をすると必ず母は「お姉ちゃんの時の木は」「桜?」「なん、なんやったか忘れたわ。すぐに枯れてしまったがにあんたのはかたわやけど、花も毎年なんだかんだ咲いてねぇ」と言う。

 実家を離れて東京に出てきてから9年。大学生の頃も働いているいまも、帰省する理由のない秋に富山にいることはほとんどなく、庭の金木犀の花が咲くのを長い間この目で見ていない。それが「そういえば来年の夏、庭を取り壊すがいちゃ」である。脈絡もなく唐突にひとこと。さすがに「えっ」と大きめに声が出た。
 理由はまぁいろいろあってといったところで、詳しくは省略するけれど、裏の納屋(ジンパチサンチと呼んでいる。いま文字に起こしてそれをただ”音”として認識していたことに気づいた)を壊すために必要な重機を入れるのに、庭を取り壊さなければならなくなったらしい。聞けば家の周辺のあちこちを解体工事するという話だった。

 「あんた泣くかと思ったわ」「いや、泣かんけど」

 喪失することを予告されるというのは、よく分からない気持ちになる。悲しいことだという気がするし悲しくなる気がする、でもそう簡単に悲しいという気持ちにまでもっていけない。だって庭はまだそこにある。

 母と電話をするときはだいたい仕事終わりで、職場から最寄りの駅のホームに着くまでの間に話す。私は気が向いたときでいいから庭の写真を送ってくれと母に頼んだ。母は「なんやら忙しくてなーん庭の手入れもできんし、草ぼうぼうでみっともないちゃよ。あんた見たらびっくりすっちゃ」と言いつつ分かったと言って、それからまた他愛もない話をして電話を切った。
 普段はたいして思い出さないのになくなると分かると気になるもので、ある/あったという確かなものが欲しくなる。それで、仕事から家に帰ってフィルムカメラで撮った写真を見返した。たしか何度か撮った記憶がある。

 庭は長屋のような造りになっている家の一番奥、居間から座敷の襖を開け座敷の障子張りの襖を開けカーテンのついた窓を開けて、やっと見ることができる。座敷の障子張りの襖は客人を通すときはだいたい閉められていて、そんなわけでわざわざ眺める人などいなかった気がする。それなのに母も祖母も庭の手入れをしていたのが不思議だ。それとも私が知らないだけで、皆それぞれに庭を眺めたりしていたのだろうか。
 まだ私と姉が幼かった頃は、園芸センターに球根や苗を買いに行って祖母と母と庭いじりをしていた。夏休みになると夕方の水やりを頼まれ、嬉々としてやったり嫌々やったりした。ああそうだ、苔の良さがわからず剥ぎ取って曽祖母にたしなめられた記憶もある。でもそれも小学校低学年か中学年までのことだ。

 何枚かあると思った庭の写真は一枚しかなかった。

写真の話

フォローする

スポンサーリンク