写真の話

20170520−21 

 何度か撮ったはずの庭を探して、久しぶりに写真を見返していた。

 現像して手元にある写真のほとんどは高校2年から大学4年の間にフィルムカメラで撮ったもので、人よりも景色を写したものの方が多い。ただそれは“その時期特有の傾向”というわけではなく、写真は専らiphoneで、データとして残すようになった今でもそうだ。(というより今の方がよっぽど人が出てこない。ここ数年のアルバムは花、花、花。笑っちゃうくらいカラフル、色鮮やかだ)

  はいチーズで撮る記念写真は別として、なんとなく、人にカメラを向けることにためらいがある。ふいにカメラを向けた時の一瞬の緊張、戸惑い、ぎこちなさ。そういう類いのものを想像して、ためらう。とはいつつ人を全く撮らないわけではないので、整理されていない写真を見ていると何枚かに一度あるいは何十枚かに一度は人が写っている。

 私の家族、恋人、友人。それから、知らない誰か。

  母や祖母は、私がカメラに興味を持った高校生の頃にはすでに、写真に撮られることを嫌うようになっていた。カメラを向けると「やめてま」といって手で顔を隠して、後ろを向いてしまう。なんでと聞くと、口を揃えて「みっとんないねか」と。老いていく自分を残すのが嫌だ、とそんなようなことを言っていた。魂を抜き取られるからなんて言葉はさすがに返ってこなかったものの、この”みっとんないから写りたくない”という意志はなかなかに強固で、祖母にいたっては私の成人式の記念写真を撮るときでさえ一緒に写ろうとはしなかったくらいだ。

  そういうわけで、高校2年から大学4年にかけて撮った写真の中にも家族の写真は数えるほどもない。かろうじてある数枚の写真はどれも、こっそり後ろ姿を撮ったものだったり対面していても目線が外れていたりしていて、ただ、唯一祖父だけは、真っ直ぐにこちらを見ている写真があった。

                   このアルバムの中に祖父がいる

 

 アルバムの中の祖父と目が合った瞬間、過去を視覚的に見たときに生まれる感情や感覚の色々が、なんか、なんというかぶわっと溢れてしまった。ぶわっと溢れて、これは手に負えない手に負えないし明日も仕事だ、そう思ってその日はシャワーをして眠った。(こんな風にひとまず蓋をして忘れていられるくらいには、私は働くことに慣れた)

 祖父の姿を写真で見るのは一昨年の12月に亡くなって以来、初めてだった。正確にいえば遺影とgoogle earthで見たとき以来、だ。

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コメント

  1. 僕もいつも写真から逃げまくっていたために、自分の写真が残っていない事を、最近になって後悔し始めました。
    「昔はイケメンだった」と言っても、誰も信じてくれないのです。

    それはともかく、写真から逃げていたのは「どんな顔をしていいのかわからない」からでした。
    天野の文章を読みながら、学生の頃に鈴木智之先生の講義でロラン・バルトの『明るい部屋』を扱ったのを思い出しました。

    「写真にうつるのが得意」でない人のほうが、その人らしいまなざしや表情が写真に写りこむものかもしれません。
    なんとなくのコメントで失礼いたします。
    おじいさまのご冥福をお祈りいたします。

  2. 天野 加奈子 より:

    コメント、ありがとうございます。書いた文章に反応がもらえる、というのは嬉しいものですね。

    記憶だけを拠り所にするのは心もとないなぁと思うことが増えて、文章や写真で残すということについて最近よく考えます。

    鈴木智之先生の講義は、いまでも折にふれて思い出します。同じ年ではないかもしれませんが、ロラン・バルトの『明るい部屋』の講義、私も受けていました。

    「昔はイケメンだった」可知さんの写真、手元にあるか分かりませんが、私の記憶の中の可知さんはイケメンですよ。初めて会った時も「顔」について話していましたが、この話はいずれ書きます。人の顔を思い出すのは意外に難しいですよね。