つれづれなるままに

つれづれなるままに書く。

という書き方があって、俺がこれを知ったのは高校生の古典の教科書。

いわゆる「つれづれ草」。

頭の中に浮かんだ事を、まったくフィルターかけずただただ手を動かす。

これを突き進めると「自動筆記」になるわけだ。

意外とこれが、精神を落ち着けるのに役に立つという話がある。

自分がどんな人間なのかまったくわからない気持ちになってしまったのが22歳のころ。

ニューヨークの街をあてもなく歩きながら、あまりにもやることが無いからノートにいろいろ書き始めて見た。

ドミトリーの狭い庭にベンチとテーブルを運び出して、日本とよく似た裏通りのフェンスを眺めながら、「俺はいったい何をしているんだろう」と感じていた。

そして、感じたままに書いていた。

Hosei-Univercity

23歳の4月に2年ぶりに大学に復帰した時、俺は同じように、自分が何をしているのか理解できなかった。

朝の7時半から東京の西のはてにある駅前のバス停に並んで、30分もすし詰めのバスに詰め込まれたあげくに、何のためになるのかわからない話を聞いて90分も座りつづける。

ただ、何となく一つだけ、少しだけ悪くない気分だったのは、ロングアイランドの片田舎で見かけた私立大学のキャンパスを思い出していたからだ。

少し用事があって、何の縁もないその片田舎をフラフラしていた俺は、たまたま通りかかったそのキャンパスの華やかさと、学生たちの屈託のなさが眩しかった。

俺のそばを通りすぎる若者たちは、みんな自分の居場所を知っていて、どこか行くべきところがあるみたいだった。

俺だけが、どこから来て、どこへ向かうのかを知らず、ただ、何者でもないよそ者として、その場所をふわふわとただよっていた。

大学に戻ったとき、少なくとも俺はそこのキャンパスに所属する学生だという立場だけは手に入れたことに、きっと少し安堵していたと思う。

そんなものにしがみつかなくてはならない程度には、俺は弱くて何も持っていなかった。

今、俺の横で7ヶ月の赤ん坊が生まれて初めてのヨーグルトに顔をしかめ、俺の両親がそれを見て喜んでいる。

わからないことばかりだ、俺には。

思いついたことから書いてみたところで、何かわかるようになるわけではないのだけど、少しは何かをしている気持ちになれるので、書いてみる。

ずっとそんなことばかりをしているような気がする。

ほとんどのことをわからないままにして、わからないことを何でもかんでも「わからない」と言ってしまうのは、会社員としては欠陥のある態度なのだという程度のことは、学んだ。

まったく地に足がついている感覚がないのにまったく問題ないような顔をしていることを嘘のように感じつつ、しかしそれでこそ会社員としての責務を果たせているのだとしたらそれが誠実なのかもしれないと考えつつ。

やっぱりなんだかわからないまま、なんとかやり過ごしているだけのような感覚も抱きつつ、今日も生きている。